日経の電子版を見ていて、おや、と思う記事がありました。
書家の柿沼康二氏の連載記事です。
何回かの連載だったのですけど、最初の回を見たときはどうなのかな?と思うことの方が多かったのです。
でも、最近の記事を読むと、結構共通する部分もあるわけで。(違うところも多分にありますけど。)
共通しているのはとにかく臨書の位置付けです。
氏の言うところのアートとまで言われるとなんだかなぁと思ってしまうのですけど、書において真に大事なのは臨書なんです。
臨書とは何ぞや。
古典の作品を練習することです。
氏も言ってましたが、まずは形から真似ていきます。
そして、次の段階に行くと、今度は古典の作品の細かい動きなどが、どうして生まれたのかを再現する段階になってきます
その先に創作があります。
古来、書家はひたすら古い時代の書を研究し臨書してきました。そして、その上に自分の何かを重ねてきたのです。
氏はそこから、書の一過性についての持論を展開していましたが、そこについてはあまり同意できないなぁ。
書が筆と墨で紙に書く以上、どうあっても全く同じものを再現することができないのは当然です。でも、別にそれは書に限ったことではないでしょうに。
また、氏は線の中の一貫性を重要視してるようですが、それだけなのかなぁ。。いや、もしかしたら、私の読み方が足りないだけなんだとは思うのですが、古典の書というのは、その線自体がリズムを持っていると思うんですよ。
線から線の連続の中には必ずその間の呼吸感にリズムが生じます。いや、線同士の連結だけではなくて、ひとつの線の、そしてひとつの点の中にもリズムがあります。
まぁ、線が連続してる行書や草書にリズムがあるようだということは納得してもらえるでしょうが、がしっと固まっているように見える楷書にもリズムはあります。典型的なのは三折です。いわゆる右はらいですね。トン・スー・トン、というのは良く言われます。実はこのリズムはかなり人工的なものらしいです。大体において、普通に字を書くときはトン・スーとかスー・トン、場合によっては単にスーだけのこともあります。そっちの方が自然なんですよね。それを三折という形態の中に凝縮して、正書体としたのが楷書なわけです。実際、楷行草の中で一番最後にできたのが楷書です。活字やフォントでは見えない書における楷書はかなりリズムに支配されているのです。
それより古い書体はどうか。
漢の時代の正書体だった隷書なんかもかなりリズミカルです。端的に見えるのは、横画の波打ったような線である波磔ですね。でも、良く良く見ると、字画の間は実に有機的な連携があります。点画は必然的に結び付いてるように思えます。
実際のところ、隷書は石に刻まれたものなのですが、同時代の肉筆である木簡などはかなり生き生きと書かれています。そして、その木簡のリズムが、かくれていて見にくいですけど、ちゃんと隷書の中にも生きているわけですね。
では、その前はどうか。
空間配置が均等で、しかも、線の太さも均一でないといけない篆書ですけど、これもリズムがないと、どこか間の抜けたような字になってしまいます。難しいものですね。秦の時代に制定された篆書の前の段階の文字と同時代のものが、また帛書とか木簡で残っています。最近私が練習している楚簡などもその一つです。ここに流れるリズムの向うに篆書のリズムがあるのだなぁ、と。
それより古い時代の書体についてはやっていないので何とも言えないんですけど。
まぁ、リズム、リズムと繰り返しましたが、それが全てだとも思いませんけどね。