今日は近所の史跡ということで国分寺の方に行ってきました。
とはいっても、史跡が集ってる箇所が近いのは国分寺駅ではなく西国分寺駅の方。
西国分寺駅のあたりから、武蔵野線の東側に東山道武蔵路の一部が残されています。かつて律令時代に北海道や沖縄などを除いた日本は五畿七道というざっくりとした地域区分がなされていて、都のある近畿のあたりから日本列島の真ん中を通り東北に続く地域を東山道と呼んでいたらしいです。そんななかで、武蔵の国は海岸に面していて東山道のメインから少しずれたところにありながら要衝の地とされ、東山道を通る街道(それも東山道という)から南に逸れる道が作られ、国府のある府中まで続いていたそうです。それが東山道武蔵路でした。この道は都に戻るのに山中に戻らないといけないことから不便で、すぐに武蔵の国は東海道に組み換えられ、やがて東山道武蔵路はすたれていったそうです。今残るのは発掘調査の行われた跡で、保存のため上が舗装されています。幅が15mとかなり広い道だったようです。
この道のことは、以前ブラタモリで紹介していて、それで知ったのでした。
東山道武蔵路が途切れているあたりからさらに南下すると国分寺の薬師堂や国分寺にたどりつきます。江戸時代あたりから残る寺です。
ただ、今回の目的はこの国分寺ではなく、まさしく天平時代に聖武天皇が日本各所に建立した国分寺のひとつである武蔵国分寺の跡地だったりします。国分寺の名称は当然この武蔵国分寺から来てるわけですね。教科書にも載ってるようなところです。
実体として、残されている建物はひとつもなく、柱が建っていた跡の支石とか、赤土と黒土を交互に重ねて版築によって作られた基礎のあととかが残されているのみ。
武蔵国分寺は鎌倉時代あたりまで修理を繰り返しながら存在したようですが、分倍河原の戦の歳に焼失してしまったそうです。
今の国分寺や薬師堂はこの武蔵国分寺のあった場所よりやや北の高台の方に築かれているようです。(昔は別の建物があったらしい。)
この場所は江戸時代には鬼瓦がよくみつかる場所として好事家とかがよく訪れる場所になっていたようですが、明治の後半になってようやっと科学的な発掘調査が行われはじめ、全国の国分寺の中でも最大規模のものであることがわかってきたらしいです。
高度成長期には宅地造成によって史跡の保存が間に合わず、失われてしまった遺構などもあるようです。武蔵国分寺跡の僧坊のあたりは残ってるのですが、その西側の国文尼寺は宅地造成で掘り返されたりしたため、復元不可能になってる箇所が多いようです。敷地にかなりの割合で公園が食い込んでもいたし。
このあたりには七重の塔もあったようで、一度焼失してから再建築されたらしいです。(今は跡しかない模様。)
このあたりは日本でも屈指の湧水でも有名らしいです。現在の国分寺から少し東に行ったところにおたかの道湧水園と武蔵国分寺跡資料館がありました。(入場は100円) 湧水の方は奥の方に湧き出ているところが臨めるぐらいのところですが、資料館の資料は結構おもしろかったです。
資料館と、入場券を売っているおたカフェの間の細い道(お鷹の道)を水路に沿って歩いていくと、さらに真姿の池湧水群というところがあります。ちょっと横に入っていった先のところに泉があって、そこから滾々と水が湧き出でているようで、用水路に水が勢い良く流れ出ていました。
お鷹の道はかなり細い道なのですが、そこを通っていくと、やがて国分寺街道にぶつかり、坂をのぼっていくと国分寺の駅に到着するのでした。
国分寺の歴史をたどっていくだけでもかなり奥の深いところでした。
近所とはいえあなどれんな。
もっとも、連れの方は生まれた土地がもっとヤバいところで、何せ近所に仁徳天皇陵があるというやつ……………。
とまれ、ここまで大規模でなくても、案外と近所にも史跡があったりするものです。
今日は6キロぐらいは歩いたみたいなのでへとへとです。
家に帰ってから一旦1時間ほど昼寝したりしていました。
毎日は無理ですが、時々これぐらい運動できていればもうちょっと体に良いのだけどなぁ………。